2011年12月12日月曜日

「世界の名著21 マキアヴェリ」より



15頁~16頁(責任編集者会田雄次氏による前書き部分)より抜粋

私たちは自分たちの日用必需品が値上がりすると、すぐ流通過程のことを考える。かりに果実や野菜を例にとって考えても生産者価格と小売価格には驚くほどの差がある。これは流通過程が複雑で不合理だからであり、もっと合理化すれば中間搾取も少なくなり、値段も下がり、生産者も消費者もともに利益を得るはずだと考える。だが、ここに商品の価値は生産することによって生ずる部分よりも、生産者のもとから消費者のもとに運ぶことによって生ずる部分が大きいという考え方がある。それはそれ自体として完結した価値体系と論理を持つ、私たちとはまったく別な世界の思考である。しかし、こういう世界がまさに「商業の世界」なのである。私たち日本人は、生産者の世界に住んでいて、生産者の意識に支配されている。この世界では、商業は正当な場所を与えられず、二次的なものとしてとりあつかわれる。

しかし、広く世界に目を転ずるとき、現在でもこの商業的世界が展開し、その価値理念に生きている商人を見いだすことができる。東から順にいえば、東南アジア諸国の経済を握っていると言われる華僑がこれである。ついでアフリカ東岸からビルマ、マラヤにかけて大勢力を持つインド商人の世界がある。その西に、いまはやや衰えたがアラビア商人の世界、近東からエジプト、北アフリカに根を張るギリシア商人の世界があり、ヨーロッパにはユダヤ人が活躍している。

この商業的世界観と生産者的世界観は真正面から対立する世界観である。だから、現在でも両者のあいだには激しい争いがくりひろげられる。華僑と現地人、インド商人と現地人との対決は宿命的である。現地人にとって華僑は外来者であり、自分たちの吸血鬼にほかならない。この対決はイデオロギーよりも、はるかに根源的である。新興国はいずれも華僑やインド商人の勢力剥奪に全力を傾ける。ユダヤ人とヨーロッパ人との歴史的対立は周知のとおりである。それはただ人種的、宗教的対立だけではない。その根底には、たがいに相容れない価値体系が存在するのである。