2011年12月18日日曜日

ヘロドトス「歴史」より



上巻338頁~342頁より抜粋

オタネスは、国事をペルシア人全体の処理に委ねるべきであるとして次のように述べた。
「われらの内、一人だけが独裁者となることは、好ましいことでも善いことでもないのであるから、そのようなことはもはやあってはならぬ、というのが私の意見である。諸子はカンビュセス王がいかに暴虐の限りを尽くしたのかを御承知であり、またマゴスの暴虐ぶりは身をもって知られた通りだからだ。何らの責任を負うことなく思いのままにできる独裁制が、どうして秩序ある国制たりうるであろう。このような政体にあっては、この世で最もすぐれた人物ですら、いったん君主の地位に坐れば、かつての心情を忘れてしまう。現在の栄耀栄華によって驕慢の心が生ずるからで、さらには人間に生得の嫉妬心というものがある。この二つの弱点をもつことにより、独裁者はあらゆる悪徳を身に具えることになるのだ。彼にあまたの非道の行為があるのは、一つには栄耀に飽き驕慢の心を起すからであり、二つには嫉妬の念の仕業である。本来ならば独裁者は、世のあらゆる幸福に恵まれ、人を羨む心などをもつはずはないのであるが、現実には彼の国民に対する態度は全くそれとはうらはらとなる。要路にある者たちを、その世にあり生ある限り嫉んでやまず、市民のうちの最も下賤な者たちを好んで寵愛し、また讒訴を容れるにかけては決して人後に落ちぬ。この世に独裁者よりもその言行常ならぬものはない。独裁者というものは、ほどほどに讃めておくと仕え方が足らぬといって機嫌を損ねるし、余り大切に扱いすぎれば、へつらい者としてやはり不興を買う。
しかし最も重大であるのは私がこれから申すことで、それは独裁者というものは父祖伝来の風習を破壊し、女を犯し、裁きを経ずして人命を奪うことだ。それに対して大衆による統治は先ず第一に、万民同権という世にも美わしい名目を備えており、第二には独裁者の行うようなことは一切行わぬということがある。職務の管掌は抽籤により、役人は責任をもって職務に当り、あらゆる国策は公論によって決せられる。
されば私としては、独裁制を断念して大衆の主権を確立すべしとの意見をここに提出する。万事は多数者にかかっているからだ。」

オタネスがこのような意見を述べたのに対し、メガビュゾスは国事を少数者の統治(寡頭政治)に委ねるべきことを主張し、次のように述べた。
「オタネスが独裁制を廃するといったのには私も全く同意見であるが、主権を民衆に委ねよというのは、最善の見解とは申せまい。何の用にも立たぬ大衆ほど愚劣でしかも横着なものはない。従って独裁者の悪虐を免れんとして、凶暴な民衆の暴戻の手に陥るというがごときは、断じて忍び得ることではない。一方は事を行う場合に、行う所以を自ら知って行うのであるが、他方に至ってはその自覚すらないのだ。もともと何が正当であるかを教えられもせず、自ら悟る能力もない者が、そのような自覚をもち得るわけがないではないか。さながら奔流する河にも似て思慮もなくただがむしゃらにかかって国事を押し進めてゆくばかりだ。それ故に、ペルシアに害心を抱くものは民主政治をとるがよい。われらは最も優れた人材の一群を選抜し、これに主権を賦与しよう。もとよりわれら自身も、その数に入るはずであり、最もすぐれた政策が最もすぐれた人間によって行われることは当然の理なのだ。」

メガビュゾスが右のような意見を述べると、三番目にダレイオスが自説を披瀝して次のようにいった。
「私はメガビュゾスが大衆についていわれたことはもっともと思うが、寡頭政治についての発言は正しくないと思う。すなわちここに提示された三つの体制――民主制、寡頭制、独裁制がそれぞれその最善の姿にあると仮定した場合、私は最後のものが他の二者よりも遥かに優れていると断言する。最も優れたただ一人の人物による統治よりもすぐれた体制が出現するとは考えられぬからで、そのような人物ならば、その卓抜な識見を発揮して民衆を見事に治めるであろうし、また敵に対する謀略にしても、このような体制下でもっともよくその秘密が保持されるであろう。しかし、寡頭制にあっては、公益のために功績を挙げんと努める幾人もの人間の間に、ともすれば個人的な激しい敵対関係が生じ易い。各人はいずれも自分が首脳者となり、自分の意見を通そうとする結果、互いに激しくいがみ合うこととなり、そこから内紛が生じ、内紛は流血を呼び、流血を経て独裁制に決着する。これによって見ても、独裁制が最善のものであることがよく判る。
一方民主制の場合には、悪のはびこることが避け難い。さて公共のことに悪がはびこる際に、悪人たちの間に生ずるのは敵対関係ではなく、むしろ強固な友愛感で、それもそのはず、国家に悪事を働く者たちは結託してこれを行うからだ。このような事態が起り、結局は何者かが国民の先頭に立って悪人どもの死命を制することになる。その結果はこの男が国民の賛美の的となり、賛美された挙句は独裁者と仰がれることになるのだ。この事例から見ても、独裁制が最高の政体であることが明らかではないか。
これを要するに、一言にしていえば、われわれの自由はそもそもどこから得られたものか、誰が与えてくれたか、ということなのだ。それは民衆からであったか、あるいは寡頭制からであったか、それとも独裁制からであったのか。されば私の抱く見解は、われわれは唯一人の人物によって自由の身にして貰ったのであるゆえに、あくまでこの体制を堅持することと、それは別としてもこの結構な父祖伝来の風習を破棄するようなことがあってはならぬということである。そのようなことをして良いわけがないからだ。」