2012年4月10日火曜日

中西寛「国際政治とは何か」より



11頁~14頁より抜粋

「最低限の必要」や「死活的利益」を外交行動の根拠とする場合、その必要や利益の判定者は結局のところ自分自身ということになる。すなわちそれは、他国から見た場合、無限定的で、際限のない拡張すら可能にする論理と映るのである。実際、日本は満洲の一部の権益から満洲全体へ、さらに華北から中国全域、ひいては東南アジア・太平洋へと拡大していった。それは最初から意図されていたものではなかったかもしれない。しかし、いったん「必要」に応じて無原則に拡大する論理が認められた時、さらなる拡大を抑制する論理を見つけるのは困難である。満州事変を使嗾した石原莞爾が、日中戦争に反対したにもかかわらず、その発言が説得力を持たなかった理由はここにある。

アメリカ・イエール大学の法制史学者朝河貫一は日露戦争後の日米関係の悪化を見て、日本にすでに警告を発していた。外国人の眼に映る日本は、南満洲で何を実行しようとしているのか明らかでなく、その分日本に対する畏怖と警戒心を強めさせている。

    世人の眼に映ずる南満洲における日本の大方針は軍事的なりや、政治的なりや、
    はた経済的なりや。・・・・世人はもとより確答を与うるあたわず、ただ日本の行為
    を聞き、これに、基づきて想像を運らすのみ。

これに対してアメリカは、門戸開放、領土保全の二大原則を中国について提唱し、それらの目標は少なくとも建前としては広く支持されている。この両者が衝突した場合どうなるであろうか。

    万一不幸にして日米が東洋において衝突することあらば、裏面の真実の事情は
    いかにあれ、また争乱の曲直はいずれにもせよ、表面の大義名分の必ず我に
    あらずして、彼にあるべきことこれなり。

日本の行為は独善的であり、アメリカは偽善的かもしれないが、両者の選択を迫られた場合、第三者はよりましな方として後者を選ぶだろうというのである。

もちろん偽善自体が望ましくないことは言うまでもない。偽善に満足することは冷笑主義への道を開く。それゆえ健全な社会では、社会に責任のない者が社会の偽善を暴くことを容認し、むしろ歓迎する場合すらある。たとえば若者が大人の偽善をなじる時、それは動機の純粋性ゆえに評価されることが少なくない。あるいは文学者が社会の偽善を指摘することもそれに近い。冒頭のショウの喜劇は、イギリス人に向けて書かれた喜劇であり、和辻も指摘するように、イギリス人の観客はこれを見て自らの偽善を再確認させられて苦笑したはずである。こうした風刺は社会に責任をもち、しばしば偽善的行為に手を染めざるをえない者に反省を促し、たとえ容易に実現できないものであっても偽善を正す必要を再確認させる。そこに自己を客観化する眼があり、精神に余裕を生むのである。和辻は、余裕が風刺を生むだけでなく、風刺が余裕を生む面があることを書き漏らしている。

しかし、社会的に責任がある者が自らは偽善とは縁がないかのごとく高い立場から他者の偽善を暴き立てる時、それは正義の行為として称賛されるよりも、無視か軽蔑、場合によっては自らの下心を隠す奸計ではないか、という疑いすら生む。偽善の場合、少なくとも他者と「善」に関する共通理解はもっていることを前提としている。すなわち、他者の眼を意識しているのである。これに対し、独善は妥協を生み出さない。正義は我にありと信じつつ、自己の利益を追求する者ほどつき合いにくい存在はない。まして他人の偽善をあげつらって自己の独善を正当化するに至っては、いっそう扱いにくい存在である。